表面を生きる/夏至に向けて

お水の力で深く潜れる6月。
逆説的ですが、最近とても自分が「表面」を生きているなぁと感じています。

ずっと憧れていた「普通の人の、普通の生き方」をしている感じが少しある。

 

誤解がないといいのですが、この世界のどこにも「普通の人」はいないと私は思っています。

けれど、人々を集団として見て区分けしたときに「大多数」側に入る場面と、「少人数」側に入る場面が人それぞれにある。性的嗜好についてはマジョリティーだけれど、仕事や人生観については日本ではマイノリティーだ、とかね。性的嗜好がマジョリティーだと言っても、その中で区分けして行ったら最終的に「マジョリティー」に入れる人など存在するかはわかりませんが(もはや「二分する」ということの本質的意味を問わなければいけませんね)。いずれにしても、どちらに区分けされるかというのは、もちろん全く「良し悪し」とは無関係です。でも生きやすさにはある程度関係してくると思われます。

 

どうしてみんな普通の顔をして普通に生活できるんだろう。

どうしてみんな何も考えないで生きていけるんだろう。

私はどうしてみんなみたいに表面を上手に泳いでいけないんだろう。

という感覚が私の中にはなんとなくずっとあったのです。文章に書いてしまうと醜い選民思想にも思えますが、ともかくずっと自分の深いところの感覚に、疑念とうしろめたさ(と、それをこじらせて優越感もあったことは認めざるを得ませんが)があったから、とにかく「みんな」みたいに表面を生きてみたかった。

当たり前すぎることですが、実際には人それぞれ、自分自身の内側で本当に様々な動きがあって、「何食わぬ顔で生きているフリ」をしている人はいるけれども「何も感じてない」人などいません。けれど、どうしても私の「底のほうで生きている感覚」を共有してくれる人は、特に20代前半まではさっぱり見つからなかった。わざわざ深い感覚にフォーカスしたり、その部分に気づいたりしている人がいないみたいに私には思えました。
だから「自分はおかしいのだろう」と、いつもどこか怯えて、そして自分にも世界にもがっかりしていたような気がします。(だからかえってちゃんと優等生をしていたけれど。)

2013年にレイキやボディートークやフラワーエッセンスを始めてからさえ、感覚の部分をわずかにでも共有してくれる人はなかなか見つからなかった。今も100%共有してくれる人はいません。これは一人ひとりが特別である限り、一生仕方ないコト、お互い様だと思われます。100%わかり合うことができないからこそ、言語が存在するのだから。

 

話が少し逸れましたが、とにかく私は表面のほうでぷかぷかとのんびりと生きてみたかったのです。
そして、私は今とてもそれができているのではないかという感覚があります。

新型コロナウイルスは社会に変容を迫りました。人の中に無意識と顕在意識とそれを表現する肉体があるように、私たちは集団としての無意識(集合意識)と、表明することのできる(言葉で表すことのできる)意識・意思と、その器としての社会があります。

そのすべてがかなり変容してきている。

 

個人と社会は密接につながっていて、相互に影響を及ぼします。生活の基盤である社会が変わらざるを得ないならば、個人の意識も変化をする。個人の考え方が変化するのであれば、ともなって器である社会にも変化が起こる。

 

新型コロナウイルスの騒ぎが始まってから、多くの気づきがやってきました。その中には感情的な「もがき」に近い体験を引き金にするようなことや、「他の人」と関わる機会が極端に減ったからこそ、やっと湧き上がってきてくれた響きから生まれたものもあったと思います。

そんなこんながあって、今私は「感じる」ということの質を変化させていて、あるいは「感じる」ということに具体的な形を与えることができていて、それが大変にピースフルでのんびりとした感覚をもたらしているように思います。それが私に「表面に浮上してきた」感覚を与えてくれているようです。
そして、表面から見てみると、どうやら私はいつも自分(の感覚)に溺れかかって生きていたのだろうと思います。自分の感じていることを深く丁寧に取り扱ってあげられなかった。その方法について見当もつけてあげられなかった。
「感情と付き合う、感情と向き合う」とかそういう言葉とは別のものです。もっと深い「感覚」の部分のお話です。

 

そしてもう少ししたら、というか、これを書けているということは既に始まってもいるのですが、両極を統合して、深く安全にダイブして、もっとも居心地のいい深さで生活できる気がする。
あるいは自由に行き来できる……。いや、これはまだ先になるかなぁ。

 

なんにつけても両極を体験しないことには、統合することはできない、と私は感じています。

底の深い静けさ。沈殿した砂の軽くて、けれどもったりとした動きを感じることができる体験をしたのなら、表面の陽の温度が感じられるピースフルで、しかし危険も多い表面の生活も体験してみる。そして最後に自分で自分がいる場所を選ぶ。

明日、21日が夏至ですね。ここが一つの臨界点。

今回の夏至は「やったるでー!」「変化点だー!」という感じがしないですが、そこへ向かって準備が進んできたのはそこはかとなくわかります。皆さまはどんな夏至の日をお迎えになりますか?

陽が極まる最高点です。同時にまた、潜る準備も始まります。

 

表面、随分気持ちよかった。けれど、だから、またもう少し深く、とぷんと潜って自分を探してみようかな。探さなくても見つかる自分もいるし、探して触れてやっと理解できる自分もいる。表面の生活は、とてもフィジカルで、現実的で、思考することで答えを出すことができる「ナニモカンガエナイ」からとっても楽な世界だけれども、とぷりと潜って触れる自分もなんだかそろそろ準備ができている気がします。

 

今日も長々とありがとうございました。載せようかどうかは迷いましたが、もしこれを読むことでほんのわずかでも自分自身や、ご自分の今を理解することに役立ててくださる方が一人でもいらしたらいいなと思って載せさせていただきました。

どうぞ素敵な一日を♪

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今日の画像は、David MarkによるPixabayから。